若嶋津さんが亡くなったのは、2026年3月15日午前11時34分。死因は肺炎で、千葉県鎌ケ谷市内の病院で69歳の生涯を閉じました。
スポーツニッポンの2026年3月15日付の報道によると、前年夏ごろから体調を崩し、療養を続けていたといいます。最期は家族に見守られて旅立ちました。
日本相撲協会も翌16日に訃報を発表。元大関としての実績だけでなく、引退後に相撲部屋を率いて多くの関取を育てた功績も紹介されました。
死因は肺炎、2017年の事故との関係は?今回の訃報で公表された死因は肺炎です。
一方、若嶋津さんには2017年10月の転倒事故があり、頭部の手術を受けた後、長期にわたる療養とリハビリを続けていました。
このため、インターネット上では転倒事故と晩年の健康状態を結びつけて考える人もいます。しかし、報道で公表された死因は肺炎であり、2017年の事故が直接の死因だったとする医学的な説明は確認されていません。
事故と死因は分けて理解する必要があります。
2026年3月24日に告別式、妻のみづえさんが喪主3月24日には千葉県市川市で葬儀・告別式が営まれました。日本相撲協会の八角理事長や角界関係者ら約300人が参列し、昭和の人気大関との別れを惜しみました。
喪主を務めた妻のみづえさんは、長年連れ添った夫について、最後まで相撲を愛し続けた人生だったと振り返りました。
デイリースポーツの報道では、若嶋津さんが生前、「俺は相撲しか知らない。相撲人生だった」と話していたことも紹介されています。
また、亡くなる前日にもテレビで大相撲を観戦していたといいます。現役を退き、部屋の師匠としての役割も終えた後も、相撲が生活の中心にあったことをうかがわせるエピソードです。
【生い立ちと経歴】種子島出身の日高六男さんが大関になるまで

若嶋津六夫さんは、1957年1月12日、鹿児島県熊毛郡中種子町、種子島の出身です。
本名は日高六男。日本相撲協会の公式プロフィールにも、生年月日、出身地、本名、所属部屋などが記録されています。
鹿児島商工高校から二子山部屋へ若嶋津さんは鹿児島商工高校(現在の樟南高校)で相撲を始めました。
高校卒業後、1975年3月場所で初土俵を踏みます。入門先は、元横綱初代若乃花が師匠を務めていた二子山部屋でした。
当時の二子山部屋は、厳しい稽古で知られる名門です。若嶋津さんはその環境で力を磨き、着実に番付を上げていきました。
- 1975年3月:初土俵
- 1980年3月:新十両
- 1981年1月:新入幕
- 1982年3月:新三役
- 1983年1月:新大関
初土俵から約8年で大関に到達したことになります。
四股名は「日高」から「若嶋津」へ若嶋津という名前は、最初から使用していたものではありません。
日本相撲協会の記録では、四股名の変遷は次のとおりです。
日高 → 若島津 → 若嶋津
1983年1月に大関へ昇進し、同年9月場所で「若嶋津」に改名しました。
こうして、昭和の大相撲を代表する人気力士の名前が定着していきました。
【大関時代】南海の黒豹と呼ばれた若嶋津の強さとは?
若嶋津さんの現役時代を語るうえで欠かせないのが、「南海の黒豹」という異名です。
浅黒い肌と精悍な顔立ち、そして素早く動く相撲から、この愛称で親しまれました。
体格の大きさだけに頼るのではなく、スピードと技術で相手を崩す取り口が特徴でした。
幕内優勝2回を達成した1984年若嶋津さんが最も輝いた時期の一つが1984年です。
同年3月の春場所では14勝1敗で初優勝。続く7月の名古屋場所では、15戦全勝という圧倒的な成績で2度目の幕内優勝を果たしました。
特に全勝優勝は、当時の大相撲ファンに強烈な印象を残しました。
大関として横綱昇進への期待も高まりましたが、最終的に横綱には届きませんでした。それでも2度の幕内優勝は、若嶋津さんの実力を示す大きな記録です。
若嶋津の通算成績と主な記録日本相撲協会の公式記録によると、生涯戦歴は75場所。大関としては28場所を務めました。
| 項目 | 成績・内容 |
|---|---|
| 四股名 | 若嶋津六夫 |
| 本名 | 日高六男 |
| 最高位 | 大関 |
| 大関在位 | 1983年1月~1987年7月 |
| 生涯戦歴 | 515勝330敗21休 |
| 幕内戦歴 | 356勝219敗13休 |
| 大関戦歴 | 250勝145敗13休 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 十両優勝 | 1回 |
| 敢闘賞 | 2回 |
| 技能賞 | 3回 |
| 金星 | 2個 |
| 得意技 | 左四つ・上手投げ・吊り |
注目したいのは、通算成績と大関在位中の成績が別々に記録されていることです。
515勝330敗21休は現役生活全体の記録であり、大関時代だけの成績ではありません。大関としての実績は250勝145敗13休です。
また、金星2個はいずれも横綱・北の湖から挙げたものです。
なぜ横綱になれなかったのか若嶋津さんは大関として優れた実績を残しましたが、横綱昇進は果たしていません。
日刊スポーツなどの報道では、188センチの身長に対して体重が軽めだったことが、現役時代の課題として取り上げられています。
特に大型力士との対戦では、体格差が不利になる場面もありました。
その後、小錦や大乃国らの大型力士に対抗するため増量を図りましたが、内臓疾患にも苦しみ、1985年以降は休場やかど番が増えていきます。
1987年7月場所で現役を引退しました。
【妻は高田みづえさん】結婚の馴れ初めと家族、相撲部屋での人間関係
若嶋津さんの人生を語るうえで、妻の高田みづえさんの存在も欠かせません。
高田みづえさんは、1970年代後半から1980年代にかけて活躍した人気歌手です。2人は同じ鹿児島県出身で、芸能界と相撲界を代表するカップルとして大きな注目を集めました。
2人の馴れ初めは雑誌の対談日刊ゲンダイの過去の報道によると、2人が知り合ったきっかけは雑誌の対談でした。
結婚の約3年半前に対談する機会があり、以前から高田さんのファンだった若嶋津さんは、雑誌のインタビューでも理想の女性として高田さんの名前を挙げていたといいます。
対談を通じて意気投合し、交際へと発展しました。
その後、1985年2月に婚約を発表。1985年9月27日に結婚式を挙げました。
高田みづえさんは結婚を機に芸能界を引退結婚後、高田みづえさんは芸能界を引退し、若嶋津さんを支える道を選びました。
その後は松ケ根部屋、二所ノ関部屋のおかみさんとして、弟子たちの生活を支えました。
Number Webの2022年の取材記事では、歌手として活動していた高田さんが、相撲部屋のおかみさんとして裏方に徹するようになった経緯が紹介されています。
芸能界で築いた知名度を前面に出すのではなく、部屋の運営や弟子の生活を支える立場に移ったことは、結婚後の大きな転換点でした。
若嶋津さんと関係の深い人物・組織| 人物・組織 | 関係 | 主なエピソード |
|---|---|---|
| 高田みづえさん | 妻 | 1985年結婚。歌手を引退し、おかみさんとして支えた |
| 初代若乃花 | 師匠 | 二子山部屋で若嶋津さんを育てた元横綱 |
| 二子山部屋 | 所属部屋 | 1975年に初土俵を踏んだ部屋 |
| 松ケ根部屋 | 創設した部屋 | 1990年2月に独立して創設 |
| 二所ノ関部屋 | 親方として率いた部屋 | 2014年に名跡を襲名し、伝統ある部屋を再興 |
| 放駒親方(元玉乃島) | 部屋の後継者 | 2021年12月に部屋を継承 |
| 元横綱・稀勢の里 | 名跡交換相手 | 2021年に二所ノ関と荒磯の名跡を交換 |
| 松鳳山ら | 弟子 | 師匠として関取7人を育成 |
若嶋津さんと高田みづえさんには、長男と長女がいます。
2023年12月のスポーツニッポンの報道では、長男の勝信さん、長女の愛里さんとともに、若嶋津さんが感謝の集いに出席したことが紹介されています。
また、2026年3月の告別式でも、2人の子供が家族として参列し、父との別れを惜しみました。
長年にわたって家族で支え合ってきたことが、報道からもうかがえます。
【2017年の転倒事故】頭部手術から療養生活、二所ノ関親方としての晩年
若嶋津さんの人生で大きな転機となったのが、2017年10月19日に起きた転倒事故です。
当時60歳だった若嶋津さんは、千葉県船橋市内の路上で倒れているところを発見されました。搬送先の病院で頭部の緊急手術を受け、一時は意識不明の重体と報じられました。
2017年10月19日の事故とその後事故直後は集中治療室で治療を受けていました。
日刊スポーツの2017年10月21日の報道では、薬の量を徐々に減らし、自発呼吸を促す処置が進められていたことが伝えられています。
その後、命の危機を脱し、長期のリハビリ生活に入りました。
松ケ根部屋から二所ノ関部屋へ若嶋津さんは現役引退後も、相撲界に大きな足跡を残しました。
1987年7月の引退後、年寄「松ケ根」を襲名。1990年2月に独立して松ケ根部屋を創設します。
その後、2014年12月1日に年寄「二所ノ関」を襲名。横綱大鵬などを輩出した伝統ある二所ノ関部屋を再興しました。
2014年4月には日本相撲協会の理事にも就任しています。
指導者として育てた関取には、松鳳山、一山本、島津海らがいます。現役時代だけでなく、親方としても後進の育成に実績を残しました。
2021年の部屋継承と2023年の協会退職2021年12月、若嶋津さんは部屋を放駒親方(元関脇・玉乃島)に継承しました。
同時期に元横綱・稀勢の里の荒磯親方と名跡を交換し、若嶋津さんは荒磯を襲名しました。
2022年1月11日には65歳の定年を迎え、再雇用制度によって参与として日本相撲協会に残りました。
しかし、2023年7月21日付で協会を退職しています。
同年12月には東京都内で「感謝の集い」が開かれ、約400人が出席。車椅子で会場に入り、家族とともに挨拶する姿が報じられました。
このときも、入門から48年間にわたって相撲界で過ごしたこと、関取7人を育てられたことへの感謝を伝えていました。
晩年は療養生活、そして2026年3月の別れ2023年の協会退職後も療養生活は続きました。
2025年8月ごろからは施設で過ごすようになり、妻のみづえさんが日々の生活を支えていたと報じられています。
2026年3月14日にも大相撲のテレビ中継を見ていたとされ、翌15日に肺炎のため亡くなりました。
現役時代に土俵で戦い、引退後は弟子を育て、晩年まで相撲を見続けた人生でした。
【プロの結論】若嶋津六夫さんが相撲界に残した功績と本当の評価
若嶋津さんの生涯を振り返ると、評価すべき要点は大きく3つあります。
1つ目は、軽量を補うスピードと技術です。
大型力士が存在感を増していく時代に、若嶋津さんは左四つや上手投げなどを武器に、俊敏な相撲で観客を魅了しました。「南海の黒豹」という愛称は、単なる容姿の印象だけではなく、土俵上での動きの特徴も表しています。
2つ目は、1984年の2度の幕内優勝です。
春場所14勝1敗、名古屋場所15戦全勝という記録は、当時の大関としての実力を物語っています。横綱になれなかったことだけで評価するのは、実績の一部しか見ていないことになります。
3つ目は、指導者としての功績です。
松ケ根部屋を立ち上げ、二所ノ関部屋を再興し、7人の関取を育てました。部屋を後進に引き継ぐまで、相撲界の発展に関わり続けました。
若嶋津さんの評価は、現役時代の勝ち星や優勝回数だけでは完結しません。力士としての実績と、親方として次世代を育てた功績の両方を見てこそ、その相撲人生の全体像が見えてきます。
また、検索情報を確認する際には、次の区別が大切です。
- 「現在」:2026年3月15日に死去しており、現在の活動状況を尋ねる表現としては過去の情報を指す。
- 「本名」:日高六男であり、若嶋津は四股名。
- 「死因」:報道で伝えられたのは肺炎。
- 「通算成績」:515勝330敗21休は現役生活全体の数字。
- 「2017年の事故」:頭部の手術と長期療養につながった出来事だが、肺炎との直接的な因果関係は公表されていない。
こうした事実関係を整理することが、人物の生涯を正しく理解するための判断基準になります。
【若嶋津六夫の現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:若嶋津六夫さんは現在も存命ですか?
2026年11月現在、若嶋津六夫さんは存命ではありません。2026年3月15日に肺炎のため69歳で亡くなりました。
Q2:若嶋津六夫さんの本名は何ですか?
本名は日高六男(ひだか・むつお)です。日本相撲協会の公式プロフィールにも記載されています。
Q3:若嶋津六夫さんの死因は何ですか?
死因は肺炎です。2026年3月15日、千葉県内の病院で亡くなったと報道されています。
Q4:若嶋津六夫さんの妻は誰ですか?
妻は元歌手の高田みづえさんです。1985年に結婚し、高田さんは結婚を機に芸能界を引退しました。その後は相撲部屋のおかみさんとして夫を支えました。
Q5:若嶋津六夫さんの幕内優勝は何回ですか?
幕内優勝は2回です。1984年3月の春場所で14勝1敗、同年7月の名古屋場所で15戦全勝を記録しました。
Q6:若嶋津六夫さんは2017年に何があったのですか?
2017年10月19日、千葉県船橋市内の路上で倒れているところを発見され、頭部の緊急手術を受けました。その後は長期の療養とリハビリ生活を続けました。
Q7:若嶋津六夫さんは二所ノ関親方だったのですか?
はい。2014年12月に年寄「二所ノ関」を襲名し、二所ノ関部屋の師匠を務めました。2021年12月に部屋を放駒親方へ継承し、2023年7月に日本相撲協会を退職しています。
若嶋津六夫さんは、種子島出身の力士として二子山部屋に入門し、1983年に大関へ昇進しました。
「南海の黒豹」と呼ばれた現役時代には、1984年に幕内優勝2回を達成。通算成績515勝330敗21休という記録を残しました。
1985年には高田みづえさんと結婚し、引退後は松ケ根部屋を創設。二所ノ関親方として後進の育成にも力を注ぎました。
2017年の転倒事故以降は療養生活が続きましたが、2026年3月15日、肺炎のため69歳で亡くなりました。
約40年間をともに過ごした妻のみづえさん、家族、弟子、そして相撲界の関係者に見送られた若嶋津さん。
その功績は、2度の幕内優勝だけではありません。土俵で見せた俊敏な相撲と、親方として次世代に残した足跡は、これからも大相撲の歴史に刻まれていきます。