2026年現在も新一万円札の肖像として知られる実業家・渋沢栄一。日本近代経済の発展に大きく貢献した人物ですが、その家族構成を調べると、妻との間に生まれた子供だけでなく、側妻との間に生まれた庶子も存在し、人数の数え方によって大きな違いが生じます。
渋沢栄一の子供は、正妻である千代との間に5人、後妻の兼子との間に6人、合わせて11人とする家系図があります。さらに婚外子とされる子供が少なくとも7人確認されており、合計18人以上という説もあります。歌子・琴子・篤二・敬三らの関係から、現在の子孫につながる家系まで整理します。
【結論】渋沢栄一の子供は何人?11人と18人以上の違いを解説

渋沢栄一の子供の人数を調べると、7人、10人、11人、17人以上、18人以上といった複数の数字が見つかります。これは必ずしも資料の誤りではなく、正妻との間に生まれた子供だけを数えるのか、早世した子供や庶子まで含めるのかによって数字が変わるためです。
2026年に紹介された経営史・系図研究者の菊地浩之氏による解説では、琴子の孫・阪谷芳直が著した『三代の系譜』の巻末系図を根拠に、栄一の子供を7男4女の計11人と整理しています。
そのうち成人まで生きた子供は4男3女の7人です。加えて、妻以外の女性との間に生まれた庶子が少なくとも4男3女の7人いたとされます。
したがって、家族関係を整理する際の基本的な数字は次のようになります。
- 千代との子供:5人
- 兼子との子供:6人
- 正妻との子供の合計:11人
- 成人まで生きた正妻の子供:7人
- 庶子:少なくとも7人とする説
- 庶子を含めた合計:18人以上
ここで注意したいのは、18人という数字が戸籍上の子供を一律に確定した公式統計ではないことです。系図や親族の回想、歴史研究に基づく人数であり、婚外子の認定や早世した子供の扱いには資料による違いがあります。
【家系図】妻・千代と後妻・兼子の子供11人を一覧で紹介
渋沢栄一の家系を理解するには、最初の妻・千代と、再婚相手の伊藤兼子を分けて考える必要があります。
最初の妻・尾高千代との間に生まれた5人千代は栄一の従妹で、1858年(安政5年)に結婚しました。渋沢栄一記念財団の詳細年譜にも、この結婚が記録されています。
千代は、栄一が幕末の政治活動に参加し、一橋家に仕官した時期や、徳川昭武に随行してフランスへ渡った時期にも、故郷や家庭を守りました。渋沢史料館には栄一から千代に宛てた書簡が約30通所蔵され、夫婦の関係を知る貴重な資料になっています。
2人の間には2男3女が生まれました。
- 長男・渋沢市太郎:1862年生まれ。同年に早世。
- 長女・穂積歌子:1863~1932年。法学者・穂積陳重の妻。
- 次女・阪谷琴子:1870~1925年。政治家・阪谷芳郎の妻。
- 三女・渋沢糸子:1871年生まれ。同年に早世。伊登とも記される。
- 次男・渋沢篤二:1872~1942年。栄一の後継者候補だった人物。
1882年(明治15年)、千代はコレラによって亡くなりました。その翌年、栄一は伊藤兼子と再婚します。
後妻・伊藤兼子との間に生まれた6人兼子は江戸の豪商・伊藤八兵衛の娘です。栄一は1883年(明治16年)に兼子と再婚し、その後、5男1女をもうけました。
- 渋沢敬三郎:1883年生まれ。同年に早世したとする系図がある。
- 渋沢武之助:1886~1946年。実業界で活動。
- 渋沢正雄:1888~1942年。実業家で鮫島純子の父。
- 明石愛子:1890~1977年。明石照男の妻。
- 渋沢秀雄:1893~1984年。実業家・文化人。
- 渋沢忠雄:1896~1897年。幼くして早世。
ここで注目したいのが、敬三郎の存在です。兼子との最初の子供とされますが、早世したため、一般的な子供紹介では省略されることがあります。こうした記載の違いが、10人と11人という人数の差につながっています。
渋沢栄一の子供の家系図・親子関係家族関係を簡潔に整理すると、次のようになります。
渋沢栄一
- 妻・千代
- 穂積歌子 → 穂積陳重と結婚
- 阪谷琴子 → 阪谷芳郎と結婚
- 渋沢篤二 → 渋沢敬三の父
- 渋沢市太郎 → 早世
- 渋沢糸子 → 早世
- 後妻・兼子
- 渋沢武之助
- 渋沢正雄 → 鮫島純子の父
- 明石愛子 → 明石照男と結婚
- 渋沢秀雄
- 渋沢敬三郎 → 早世
- 渋沢忠雄 → 早世
- 側妻などとの間に生まれた庶子とされる子供たち
なお、子供の順番は早世した男子を含む数え方によって変わります。渋沢正雄が四男と表記される一方、親族の回想では兼子の三番目の男子と説明されることがあるのも、そのためです。
【人数の違いを検証】渋沢栄一の子供で早世した4人とは?
渋沢栄一の家族構成を調べる際、見落とされやすいのが幼くして亡くなった子供たちです。後世に活躍した子孫の系図では、成人した子供を中心に紹介することが多く、早世した子供の名前が省かれる場合があります。
しかし、出生した子供の総数を数えるなら、短い生涯だった子供も含める必要があります。
系図資料に記載されている主な早世者は次の4人です。
- 渋沢市太郎:1862年生まれ、同年没。
- 渋沢糸子:1871年生まれ、同年没。
- 渋沢敬三郎:1883年生まれ、同年没とする記載がある。
- 渋沢忠雄:1896年生まれ、1897年没。
市太郎と糸子は千代との間に生まれた子供です。敬三郎と忠雄は兼子との間に生まれた子供とされています。
とくに敬三郎については、家系図によって記載の有無に差があります。渋沢正雄の次女である鮫島純子は、著書『祖父・渋沢栄一に学んだこと』で、父・正雄が栄一と兼子の間の三番目の男子にあたることや、兼子に流産・新生児の夭折が続いたことに触れています。
この親族の回想と系図を照らし合わせると、敬三郎の記載が省かれた背景を理解できます。
なぜ7人、10人、11人という数字が出てくるのか人数の違いは、次の3つの基準を区別すると整理できます。
7人:正妻との間に生まれ、成人まで生きた子供を数えた場合です。
10人:敬三郎を含めないなど、早世した子供の記載に違いがある系図や紹介記事で見られる数字です。
11人:『三代の系譜』の巻末系図などをもとに、早世した子供も含めて数えた場合です。
したがって、子供の人数を比較するときは、数字だけを見るのではなく、早世者を含むかどうかを確認することが大切です。
【庶子の実像】大内くにとの関係と長谷川重三郎ら7人の子供
渋沢栄一の子供の人数を考えるうえで、正妻以外の女性との間に生まれた庶子の存在も欠かせません。
2026年に公開された系図研究者・菊地浩之氏の解説では、栄一には正妻との間の11人以外に、少なくとも4男3女の庶子がいたとされています。ここまで含めると、子供は18人以上という計算になります。
大内くにとの妻妾同居という家庭環境栄一の女性関係を語るうえで知られているのが、大内くにという女性です。
歴史家・鹿島茂氏による文藝春秋での解説によると、栄一は1871年に大阪でくにと知り合い、千代の了承を得たうえで、東京の自宅にくにを迎え入れました。千代とくにが同じ家庭で暮らし、ほぼ同じ時期に子供を産んだという、当時の社会背景を考えるうえでも興味深い家族関係です。
深谷市の「渋沢栄一翁と論語の里」整備活用計画に掲載された略系図にも、栄一の庶系として大内くにの名前が記されています。
ただし、栄一の庶子とされる7人全員を大内くにの子供とするのは正確ではありません。複数の女性との関係があったとされ、母親や親子関係の記録には個別の違いがあります。
渋沢栄一の庶子とされる7人系図研究者の解説で名前が挙げられている人物は次のとおりです。
- 尾高ふみ:1871年生まれ。尾高次郎の妻。
- 大川てる:1875~1927年。大川平三郎の妻。
- 星野辰雄:1892年生まれ。星野錫の養子。
- 安本つる:1897年生まれ。安本明治郎の妻。
- 川崎まつ:1900年生まれ。川崎甲子男の妻。
- 長谷川重三郎:1908~1985年。銀行界で活動した人物。
- 長谷川遠四郎:1913年生まれ。
これらの人物は、系図研究上、栄一の庶子とされる人々です。ただし、すべての人物について親子関係を同じ確度で確定できるわけではありません。公的な家系記録と、親族間で伝えられた系譜は区別して読む必要があります。
長谷川重三郎は渋沢栄一の13番目の子供だった?庶子のなかでも特に注目されるのが、長谷川重三郎です。
重三郎は1908年生まれで、渋沢栄一が68歳のときに生まれた子供にあたります。第一銀行の「プリンス」と呼ばれた人物としても知られ、栄一の子供では13番目にあたるという説があります。
名前についても、栄一の13番目の子供だったことにちなんで「重三郎」と名付けられたという説が紹介されています。また、弟の遠四郎についても、14番目という数字に由来するという伝承があります。
ただし、重三郎は公的には長谷川元の子として記録されています。栄一との親子関係については系図研究で紹介される説として理解する必要があります。
このように、正妻との間に生まれた子供と、婚外子として伝えられる子供を同じ基準で数えることは簡単ではありません。18人以上という数字は、こうした複数の系譜を含めた歴史的な整理なのです。
【子供たちの生涯】歌子・琴子・篤二・武之助・正雄・秀雄の活躍
渋沢栄一の子供たちは、実業界だけでなく、法学、政治、文化、教育など幅広い分野で活動しました。なかでも歌子・琴子・篤二の3人は、栄一の家系を理解するうえで重要な存在です。
長女・穂積歌子と夫の穂積陳重穂積歌子は1863年生まれで、栄一と千代の長女です。法学者の穂積陳重と結婚し、穂積家の一員となりました。
穂積陳重は日本初の法学博士の一人で、東京大学での教育や近代法制度の整備に貢献し、後に枢密院議長も務めた人物です。
歌子は夫を支える一方、自らも日記や著作を残しました。代表的な資料が『穂積歌子日記』です。明治23年から39年にかけての日記を収録した資料は、法学者の家庭生活や明治期の上流社会を知るうえでも貴重な記録になっています。
また、歌子は母・千代を偲ぶ文章『はゝその落葉』も残しました。渋沢史料館が紹介する同書には、母を思う娘の視点から千代の人物像が記されています。
次女・阪谷琴子と阪谷芳郎阪谷琴子は1870年生まれで、千代との間に生まれた次女です。大蔵官僚として活躍し、後に大蔵大臣や東京市長を務めた阪谷芳郎と結婚しました。
琴子と芳郎の間には4人の子供が生まれています。琴子は家庭を支える立場としても重要な役割を担い、阪谷家の家族史や家庭教育を研究する際にも注目される人物です。
また、琴子の孫にあたる阪谷芳直は『三代の系譜』を著し、栄一の家族関係を伝える資料を残しました。栄一の子供の人数を11人とする家系図を理解するうえでも、重要なつながりです。
長男・渋沢篤二と後継者・渋沢敬三渋沢篤二は1872年生まれで、千代との間に生まれた長男です。当初は父・栄一の後継者として期待され、実業界で活動しました。
しかし、1913年(大正2年)に廃嫡され、渋沢家の後継者としての立場を失います。廃嫡の背景には女性関係などが取り沙汰されていますが、その具体的な理由については資料によって説明が異なります。
その後、栄一が後継者に選んだのは、篤二の長男である渋沢敬三でした。
敬三は1896年に生まれ、栄一の孫にあたります。日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任しただけでなく、民俗学・民族学の研究や資料収集にも力を注ぎました。
渋沢史料館によれば、敬三は自宅に私設研究所「アチックミューゼアム」を設け、民具や古文書、地域の生活文化に関する資料の収集・研究を進めました。実業家としてだけでなく、日本の民俗学の発展に貢献した人物でもあります。
渋沢武之助・渋沢正雄・渋沢秀雄の功績後妻・兼子との間に生まれた男子たちも、それぞれ異なる分野で活動しました。
渋沢武之助(1886~1946年)は実業界で活動し、企業の役員などを歴任しました。渋沢一族の事業活動を支えた人物の一人です。
渋沢正雄(1888~1942年)は第一銀行に入社し、渋沢一族と関係の深い企業で経営に携わりました。1932年には日本製鐵の副社長に就任し、製鉄業に力を注いでいます。
正雄の次女がエッセイストの鮫島純子です。純子は1922年生まれで、祖父・栄一との交流や教えを『祖父・渋沢栄一に学んだこと』に記しました。2023年1月19日に100歳で亡くなり、渋沢史料館は彼女の思い出や著作を紹介する企画展を開催しました。
渋沢秀雄(1893~1984年)は実業家であると同時に文化人としても知られました。田園都市株式会社の取締役を務め、東京宝塚劇場や東宝の経営にも携わりました。絵画や俳句などにも親しみ、渋沢一族のなかでも文化的な活動を担った人物です。
また、栄一の娘・明石愛子は明石照男と結婚し、明石家へとつながる系譜を形成しました。
【渋沢栄一の子孫は現在】渋沢七家と現代につながる家系
渋沢栄一の子孫を考えるとき、重要な言葉が「渋沢七家」です。
これは、正妻との間に生まれた子供のうち、成人まで生きた4男3女の7人と、その子孫につながる家系を指す呼び方です。
具体的には、穂積歌子、阪谷琴子、渋沢篤二、渋沢武之助、渋沢正雄、明石愛子、渋沢秀雄の7人が中心になります。
渋沢敬三から渋沢雅英へ続く直系の家系渋沢家の本流を理解するうえで重要なのが、篤二から敬三、そして雅英へと続く家系です。
渋沢敬三は栄一の孫で、篤二の長男です。栄一の後継者として渋沢家を支え、日本銀行総裁や大蔵大臣を務めました。
その長男が渋沢雅英です。雅英は1925年生まれで、栄一の曾孫にあたります。渋沢栄一記念財団の前理事長を務め、後に相談役となりました。
東京都の2024年10月の公表資料では、雅英が2025年2月に100歳を迎えることが紹介されています。また、2025年1月1日付の渋沢栄一記念財団の役員名簿にも相談役として記載されています。
雅英は栄一に関する書籍の執筆や、残された手記のデジタル化にも取り組んできました。単に家系を受け継ぐだけでなく、曾祖父の歴史的資料を後世へ伝える役割を担ってきた人物です。
渋澤健は渋沢栄一の玄孫現代の渋沢家の子孫として知られる人物の一人が、渋澤健です。
渋澤健は1961年生まれの実業家で、渋沢栄一の玄孫にあたります。米国でMBAを取得した後、金融業界で経験を積み、2001年に独立。2007年にはコモンズ株式会社を設立し、コモンズ投信の経営に携わってきました。
2026年時点のコモンズ投信の公式プロフィールでも、渋澤健は取締役会長として紹介されています。
栄一が掲げた「道徳と経済の両立」という思想は、現代の企業経営や長期投資を考える際にも取り上げられています。渋澤健の活動は、栄一の子孫が単に歴史的な家名を守るだけでなく、その理念を現代の経済活動に結び付けている例といえます。
子孫の人数は現在何人?渋沢栄一の子孫が現在何人いるのかについて、全系統を網羅した確定的な公表人数はありません。
栄一には正妻の子供だけでなく庶子もおり、それぞれの家系が穂積家、阪谷家、明石家、鮫島家、長谷川家など、さまざまな姓へとつながっています。したがって、現在の子孫を渋沢姓だけで数えることはできません。
また、渋沢七家という呼び方も、栄一の全子孫を一つの姓でまとめたものではありません。婚姻によって広がった親族関係を含めて考える必要があります。
2026年現在、渋沢栄一の子孫を調べる際には、渋沢史料館や渋沢栄一記念財団の資料、各家の記録、親族が残した著作を組み合わせると、より立体的に家系を理解できます。
【渋沢栄一の子供】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:渋沢栄一の子供は結局何人いたのですか?
A1:正妻の千代との間に5人、後妻の兼子との間に6人で、合計11人とする家系図があります。さらに庶子が少なくとも7人いたとする系図研究があり、婚外子を含めると18人以上という説があります。
Q2:渋沢栄一と千代、兼子のどちらに多くの子供がいましたか?
A2:千代との間には2男3女の5人、兼子との間には5男1女の6人が生まれています。人数だけで比較すると、兼子との間に生まれた子供の方が1人多くなります。
Q3:渋沢栄一の子供で有名なのは誰ですか?
A3:長女の穂積歌子、次女の阪谷琴子、長男の渋沢篤二が代表的です。また、篤二の長男で孫にあたる渋沢敬三は、日本銀行総裁と大蔵大臣を務めました。
Q4:渋沢栄一の庶子は何人いましたか?
A4:系図研究者の解説では、少なくとも4男3女の7人が庶子として挙げられています。大内くにとの関係や長谷川重三郎などの系譜が知られています。
Q5:渋沢栄一の子孫で現在活躍している人はいますか?
A5:渋澤健が代表例です。渋沢栄一の玄孫で、コモンズ投信の取締役会長を務めています。また、曾孫の渋沢雅英は渋沢栄一記念財団の前理事長として、栄一に関する資料や研究の継承に携わってきました。
渋沢栄一の子供は、妻・千代との間に5人、後妻・兼子との間に6人、合計11人とする系図があります。そのうち4人は幼くして亡くなり、成人まで生きた子供は7人でした。
加えて、側妻などとの間に生まれた庶子が少なくとも7人いたとする研究があり、すべてを含めると18人以上という数字になります。17人以上という紹介もありますが、早世した敬三郎の扱いや庶子の認定範囲によって差が生まれています。
子供たちの歩みを見ると、穂積歌子は法学者の家庭と文学・記録の世界へ、阪谷琴子は政治家の阪谷家へ、篤二は実業界へと進みました。その後、孫の渋沢敬三が日本銀行総裁や大蔵大臣を務め、曾孫の渋沢雅英や玄孫の渋澤健へと家系が続いています。
渋沢栄一の家系図で大切なのは、単純な人数だけではありません。千代と兼子の子供、早世した子供、庶子、そして婚姻によって広がった子孫を区別することで、近代日本の経済・政治・文化を支えた一族の歴史が見えてきます。
子供の人数を調べるなら、まず正妻との間の11人を基本にし、庶子を含む場合は18人以上という系図研究上の説を区別することが、最も理解しやすい整理方法です。
主な確認資料: 渋沢栄一記念財団・渋沢史料館の詳細年譜と所蔵資料、深谷市の略系図、東京都の公表資料、系図研究者による2026年の解説、親族の著作・回想、現代の子孫の公式プロフィール。