1894年、広島県竹原町(現在の竹原市)に生まれた竹鶴政孝は、日本に本格的なウイスキーづくりを根付かせた実業家・技術者である。スコットランドへの留学で蒸溜技術を学び、現地で出会った妻リタとともに帰国。寿屋(現在のサントリー)で山崎蒸溜所の建設と製造に携わった後、1934年に北海道余市で大日本果汁株式会社を設立し、ニッカウヰスキーの礎を築いた。
彼の功績を理解するには、スコットランドで書き上げた「竹鶴ノート」、リタとの国境を越えた結婚、鳥井信治郎との協働、そして余市での独立という4つの転機が欠かせない。2026年現在も、日本のウイスキー産業の歴史を語るうえで重要な人物であり続けている。
【1894年広島生まれ】竹鶴政孝の生涯と経歴、ウイスキーづくりへの原点

竹鶴政孝(たけつる・まさたか)は、1894年6月20日、広島県竹原町に生まれた。
父・竹鶴敬次郎と母・チョウのもと、製塩業と酒造業を営む家で育った。実家は日本酒を造る蔵元であり、政孝は幼いころから酒造りの現場を身近に感じていた。
ニッカウヰスキーの創業者紹介によると、政孝は酒蔵を遊び場にして育ち、酒造りの工程や職人の仕事を自然に学んでいった。
後年、本人は次のように振り返っている。
「酒づくりのきびしさは、父を通して私の血や肉になった」
この経験は、後に彼がウイスキーの品質に強いこだわりを持つようになる原点だった。
旧制中学では柔道部の主将を務め、その後、大阪高等工業学校(現在の大阪大学に連なる教育機関)の醸造科へ進学する。
日本酒の醸造を学びながら、政孝の関心は次第に洋酒へと向かっていった。
摂津酒造への入社と海外留学の決定1916年、政孝は大阪の摂津酒造に入社した。
摂津酒造は当時、アルコールや洋酒の製造を手掛けていた企業である。ウイスキーの製造技術を研究していた政孝にとって、実務経験を積む重要な場所だった。
当時の日本では、輸入スコッチウイスキーへの関心が高まっていた一方、本場と同じ製造工程で本格的なウイスキーを国内生産する技術は十分に確立されていなかった。
摂津酒造は本格的な国産ウイスキー製造を計画し、技術者として評価されていた政孝をスコットランドへ派遣することを決める。
1918年、政孝は単身で英国へ渡った。
この留学が、日本のウイスキー史を大きく変える出発点となったのである。
2026年時点で整理する竹鶴政孝のプロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 竹鶴政孝 |
| 読み方 | たけつる・まさたか |
| 生年月日 | 1894年6月20日 |
| 出身地 | 広島県竹原町(現・竹原市) |
| 職業 | 実業家・ウイスキー技術者 |
| 最終学歴 | 大阪高等工業学校醸造科 |
| 主な勤務先 | 摂津酒造、寿屋 |
| 妻 | 竹鶴リタ(ジェシー・ロベールタ・カウン) |
| 創業企業 | 大日本果汁株式会社 |
| 創業年月日 | 1934年7月2日 |
| 代表的な功績 | 竹鶴ノート、山崎蒸溜所、余市蒸溜所 |
| 没年月日 | 1979年8月29日 |
| 享年 | 85歳 |
| 代表的な後継者 | 竹鶴威 |
生没年については国立国会図書館の典拠データや外務省の資料にも記録されている。2026年現在、竹鶴政孝本人は故人だが、その技術と経営理念はニッカウヰスキーの歴史に残っている。
【スコットランド留学と竹鶴ノート】日本のウイスキーづくりを変えた2冊の記録
1918年、スコットランドで始まった本格的な修業政孝がスコットランドに到着したのは1918年12月。
グラスゴー大学とロイヤル工科大学(現在のストラスクライド大学)で化学を学びながら、ウイスキー製造に関する専門書や文献を読み込んだ。
しかし、彼が求めていたのは机上の知識だけではなかった。
実際の蒸溜所で製造工程を経験することを望み、1919年4月、スペイサイド地方のロングモーン蒸溜所を訪問する。
ここで政孝は、麦芽づくりから発酵、蒸溜、貯蔵まで、モルトウイスキー製造の一連の工程を実習した。
さらに同年7月には、エディンバラ近郊のボネスにあった工場でグレーンウイスキーの製造についても学んでいる。
モルトだけでなく、グレーンの製造工程まで経験したことは、その後の日本でのウイスキーづくりに大きな意味を持った。
竹鶴ノートの内容とは?歴史的価値を解説竹鶴ノートは、政孝がスコットランドでの実習内容をまとめた2冊の技術記録である。
正式には「実習報告」と題された2冊のノートで、蒸溜所や工場で学んだ内容を細かく記録している。
単なる旅行記や留学日記ではない。実際のウイスキー製造に必要な技術や設備、経営に関する知識までまとめられた専門的な資料だった。
主な記録内容は次のとおり。
- 蒸溜技術:ポットスチルの原理、構造、蒸溜工程に関する記録。
- 製造設備:設備の仕組みを示すイラストや写真。
- 製造工程:麦芽製造、発酵、蒸溜、貯蔵などの実習内容。
- 工場運営:従業員の待遇や労働環境。
- 制度面:酒税など、ウイスキー事業を取り巻く制度についての考察。
特に重要なのは、政孝が単純に海外の技術を写し取ったのではなく、自分の考えや意見も加えていた点だ。
現場での経験を記録し、日本で再現するための知識として整理していたのである。
ニッカウヰスキーの公式創業者紹介でも、この2冊は日本の本格ウイスキーづくりの歴史を語るうえで重要な資料として紹介されている。
竹鶴ノートが日本の産業史に残した意味当時の日本では、ウイスキーは輸入品や模造洋酒が中心だった。
本場と同じ製法を国内で実現するには、設備の設計から原料の扱い、発酵、蒸溜、熟成までを体系的に理解する必要がある。
政孝が持ち帰ったのは、ウイスキーのレシピだけではなかった。
品質を安定させるための工程管理、設備の知識、熟成を前提とする事業の考え方まで含まれていた。
この点に竹鶴ノートの歴史的価値がある。
海外の技術を日本へ移転し、それを国内の気候や水、原料に合わせて実践する。竹鶴政孝の仕事は、日本のウイスキー産業が独自の発展を遂げるための技術的な土台となった。
【竹鶴政孝とリタの結婚】出会い・馴れ初め・国際結婚の実話
リタとの出会いは1919年のスコットランド政孝の人生を語るうえで欠かせないのが、妻となるリタとの出会いである。
リタの本名はジェシー・ロベールタ・カウン。1896年、スコットランドに生まれた女性だった。
2人が出会ったのは1919年の初夏。
政孝がグラスゴー大学で知り合った女子学生を通じて、その家を訪れたことがきっかけだった。
女子学生の弟に柔道を教えてほしいと頼まれた政孝は、カウン家を訪問する。そこで出会ったのが、長女のリタだった。
文学や音楽など共通の趣味を通じて、2人は少しずつ親しくなっていく。
ニッカウヰスキーの公式資料では、当時の政孝とリタが互いに惹かれ合っていった様子が紹介されている。
1920年1月8日、スコットランドで結婚2人は1920年1月8日、グラスゴーの登記所で結婚の手続きをした。
当時、国際結婚には家族や文化の違いなど、さまざまな障壁があった。
実際、リタの家族も当初は結婚に反対していたため、教会での結婚式は実現しなかった。
竹鶴家にも反対があったが、摂津酒造の阿部喜兵衛社長が渡欧して2人と面会し、結婚を認める方向へ話を進めた。
その後、家族の理解も得られ、グラスゴーで祝宴が開かれた。
政孝は結婚に際してスコットランドに残る覚悟も持っていたが、日本へ帰ることを勧めたのはリタだった。
リタは夫の夢を理解し、日本でウイスキーづくりに挑戦する人生を選んだのである。
リタは日本でどのように暮らしたのか帰国後のリタは、異国の文化や生活習慣に向き合いながら日本で暮らした。
日本語を学び、日本の食文化にも親しんでいった。
また、政孝が摂津酒造を退職した後の生活を支えるため、英語教師として働いた時期もある。
学校法人帝塚山学院に残る人事記録によると、リタは1922年9月から1924年12月まで、同学院の小学校で英語教師を務めていた。
これは、リタが単に創業者の妻として夫を支えただけではなく、自らの仕事を持ち、生活を支えていたことを示す記録でもある。
リタの存在は、竹鶴政孝の人生を理解するうえで重要な要素だ。
異国での生活を選び、夫の夢に寄り添いながら、自分自身の役割も果たしていた。
【山崎蒸溜所から余市蒸溜所へ】鳥井信治郎との関係とニッカ創業の経緯
摂津酒造がウイスキー事業を断念した理由スコットランドでの修業を終えた政孝は、1920年にリタとともに帰国し、摂津酒造の技師長として働いた。
しかし、第一次世界大戦後の不況によって経済環境が悪化する。
摂津酒造は当初計画していた本格ウイスキーの製造を断念せざるを得なくなった。
海外で技術を身につけた政孝にとって、これは大きな転機だった。
彼は摂津酒造を退職し、リタとともに生活を支えるための仕事に就くことになる。
この時期の経験が、後に独立して自らの理想を追求する決断につながっていく。
鳥井信治郎に招かれ、山崎蒸溜所の建設を担当1923年、政孝は寿屋の創業者・鳥井信治郎に招かれた。
現在のサントリーにつながる寿屋は、日本国内で本格的なウイスキー製造を目指していた。
鳥井が求めたのは、スコットランドで本格的な製造技術を学んだ専門家だった。
政孝は10年間の約束で寿屋に入社し、蒸溜所建設の現場を任される。
当初、政孝は北海道での建設を提案していたが、鳥井は大阪から近い山崎を建設地に選んだ。
こうして1923年に山崎蒸溜所の建設が始まり、1924年11月に完成する。
政孝は設備の設計やポットスチルの発注、製造現場の指導などを担当した。
1929年4月には、日本初の本格ウイスキーとされる「サントリーウイスキー(白札)」が発売された。
ここで重要なのは、山崎蒸溜所は鳥井信治郎が事業を主導し、竹鶴政孝が技術者・工場長として製造を担ったという関係だ。
両者は日本のウイスキー産業の黎明期をともに切り開いた人物であり、後にそれぞれ異なる方向で事業を発展させることになる。
1934年、北海道余市で大日本果汁株式会社を創業1934年3月、政孝は契約満了を迎えて寿屋を退社した。
その後、自分が理想とするウイスキーをつくるため、北海道へ向かう。
選んだ場所は北海道余市だった。
余市は冷涼な気候、豊かな水、澄んだ空気、適度な湿度など、ウイスキーの熟成に適した自然条件を備えていた。
スコットランドの気候に近い環境を求めていた政孝にとって、理想的な土地だったのである。
1934年7月2日、政孝は大日本果汁株式会社を設立した。
これが現在のニッカウヰスキーの前身である。
同年10月には余市に工場が完成し、蒸溜所としての歩みが始まった。
なぜ最初からウイスキーを販売しなかったのかウイスキーづくりには、蒸溜した原酒を樽で熟成させる時間が必要になる。
製造を始めても、すぐに商品として販売できるわけではない。
政孝は、この時間を乗り切るためにリンゴジュースの製造販売を始めた。
1935年には「ニッカ林檎汁」を発売。ウイスキーの熟成を待つ間、すぐに販売できる商品で会社を支えようとしたのである。
しかし、品質にこだわったリンゴジュースは当時の商品と比べて価格が高く、販売は苦戦した。
返品も相次ぎ、経営は決して順調ではなかった。
それでも政孝はウイスキーづくりを諦めなかった。
1936年にはウイスキーとブランデーの製造免許を取得し、蒸溜を開始する。
そして1940年6月、念願の第一号ウイスキーを発売した。
商品名は「ニッカウヰスキー」。
大日本果汁の「日」と「果」を組み合わせた名称だった。
ニッカの誕生は、単なる企業設立ではなく、長い熟成期間と資金繰りの苦難を乗り越えた結果だったのである。
【人物相関と歴史年表】竹鶴政孝を支えた人々とニッカの転換点
竹鶴政孝の生涯は、単独の成功物語ではない。
摂津酒造の経営者、鳥井信治郎、妻リタ、そして後継者の竹鶴威など、多くの人物との関係によって形づくられた。
主要な人物・組織の関係を整理すると、次のようになる。
| 人物・組織 | 関係 | 主な役割・出来事 |
|---|---|---|
| 竹鶴政孝 | 主人公 | 日本の本格ウイスキーづくりを推進。ニッカを創業 |
| 摂津酒造 | 初期の勤務先 | 政孝をスコットランドへ派遣 |
| 阿部喜兵衛 | 摂津酒造社長 | 政孝の海外留学やリタとの結婚を支援 |
| 竹鶴リタ | 妻 | スコットランドで結婚し、日本での生活と事業を支えた |
| 鳥井信治郎 | 寿屋の創業者 | 政孝を招き、山崎蒸溜所の建設を推進 |
| 寿屋 | 勤務先 | 山崎蒸溜所を建設し、日本初の本格ウイスキーを発売 |
| 大日本果汁株式会社 | 政孝が創業 | 余市を拠点にニッカウヰスキーの基盤を構築 |
| 竹鶴威 | 甥・養子、後継者 | 製造技術を継承し、第2代マスターブレンダーなどを歴任 |
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1894年 | 広島県竹原町に誕生 |
| 1916年 | 摂津酒造に入社 |
| 1918年 | スコットランドへ留学 |
| 1919年 | ロングモーン蒸溜所などで実習。リタと出会う |
| 1920年 | 1月8日、リタと結婚。11月に帰国 |
| 1923年 | 寿屋に入社 |
| 1924年 | 山崎蒸溜所が完成 |
| 1929年 | サントリーウイスキー白札発売 |
| 1934年 | 寿屋を退社。7月2日、大日本果汁株式会社を設立 |
| 1936年 | 余市でウイスキーの蒸溜を開始 |
| 1940年 | 第一号ニッカウヰスキー発売 |
| 1943年 | ニッカの取締役社長に就任 |
| 1949年 | 竹鶴威がニッカに入社 |
| 1961年 | 妻リタが逝去 |
| 1962年 | スーパーニッカ発売 |
| 1969年 | 宮城峡蒸溜所が完成 |
| 1979年 | 8月29日、85歳で逝去 |
この年表から分かるのは、政孝の人生が海外修業、国内での技術実践、独立、品質向上、後継者育成という段階を踏んでいることだ。
特に1924年の山崎蒸溜所完成と1934年の余市での独立は、日本のウイスキー史を理解するうえで重要な2つの転換点となる。
【日本のウイスキーの父と呼ばれる理由】死因・没年・竹鶴威への継承と現在の功績
竹鶴政孝はなぜ「日本のウイスキーの父」と呼ばれるのか竹鶴政孝が日本のウイスキーの父と呼ばれる理由は、単に有名なウイスキーブランドを創業したからではない。
その功績は、大きく3つに分けられる。
1. 本場の製造技術を体系的に日本へ持ち帰ったこと
スコットランドでモルトとグレーンの製造技術を学び、竹鶴ノートとして体系化した。
日本国内で本格的なウイスキーを製造するための技術的な基盤を築いた点は、極めて大きい。
2. 山崎と余市の2つの蒸溜所の歴史に関わったこと
寿屋では山崎蒸溜所の建設と製造を担当し、独立後は余市蒸溜所を設立した。
つまり、現在のサントリーにつながる日本のウイスキー史と、ニッカウヰスキーの両方に重要な足跡を残している。
3. 熟成と品質を重視する製造文化を根付かせたこと
政孝は、短期間で利益を得ることよりも、本格的なウイスキーを育てることを重視した。
熟成期間を必要とする製品を事業として成立させるため、リンゴジュースの販売を組み合わせた経営判断も、その姿勢を象徴している。
ただし、日本のウイスキー産業は竹鶴政孝だけで成立したわけではない。
鳥井信治郎をはじめ、原酒づくりや製造設備、販売、流通に携わった多くの人々がいた。
政孝の功績は、そうした産業の発展を支えた重要な柱の一つとして評価されている。
妻リタの死と政孝の晩年1961年1月、リタが逝去した。
ニッカウヰスキーの公式資料によると、政孝は妻を失った後、深い悲しみに暮れた。
その後、養子の竹鶴威とともにウイスキーづくりに取り組み、1962年10月には「スーパーニッカ」を発売した。
この商品は、リタに捧げる意味を持つウイスキーとして紹介されている。
政孝はその後も製造技術の向上に取り組み、1969年には宮城峡蒸溜所の建設を実現した。
余市とは異なる個性を持つモルト原酒を生み出し、カフェ式連続式蒸溜機によるグレーンウイスキーと組み合わせる構想を進めたのである。
彼の理想は、一つの蒸溜所だけで完結するものではなかった。
異なる個性の原酒を組み合わせ、本場スコットランドに匹敵するウイスキーを日本でつくることだった。
竹鶴政孝の死因と没年は?竹鶴政孝は1979年8月29日、東京都で逝去した。享年85。
生年月日と没年月日は、外務省の外交史料館資料や人物事典にも記録されている。
一方、死因については、ニッカウヰスキーの公式略歴や国立国会図書館の人物典拠に具体的な病名は記載されていない。
そのため、没年と享年は確定したプロフィール情報として扱えるが、死因を公式に確認された事実として断定することはできない。
竹鶴威はどのように後継者となったのか政孝の後継者として重要な人物が、竹鶴威(たけつる・たけし)である。
威は1924年生まれで、政孝の甥にあたり、1943年に政孝とリタの養子となった。
1949年にニッカウヰスキーへ入社し、製造技術や会社経営に携わっていく。
ニッカの公式資料によれば、威は工場長、製造部長、取締役などを歴任し、1985年に第5代社長へ就任した。
また、第2代マスターブレンダーとして、政孝が築いた製造思想を引き継いだ。
特に重要なのは、スーパーニッカの開発を政孝とともに進めたこと、宮城峡蒸溜所の建設に深く関わったことだ。
政孝が目指したウイスキーづくりは、後継者によって具体的な製造技術と企業経営の両面から継承されていった。
威は2014年に逝去しているが、その仕事は現在のニッカウヰスキーの歴史を構成する重要な一部となっている。
NHK朝ドラ『マッサン』は実話?竹鶴政孝との違い2014年9月から2015年3月まで放送されたNHK連続テレビ小説『マッサン』は、竹鶴政孝とリタ夫妻をモデルにした作品である。
ただし、史実をそのまま映像化したドキュメンタリーではない。
主人公は亀山政春、妻は亀山エリーという名前で登場する。
実在の人物や企業の名称は変更され、物語としての構成や人物描写にも脚色が加えられている。
特に、家族の反対や夫婦の生活をめぐるドラマ上の対立は、実際の出来事をそのまま再現したものではない。
帝塚山学院の歴史資料では、リタが1922年から英語教師として勤務していた記録が紹介されている。
こうした史実を見ると、リタは単に夫に付き添う外国人女性ではなく、日本で自分の仕事を持ちながら生活していたことが分かる。
また、政孝と鳥井信治郎の関係も、ドラマの人物関係だけで理解するのは不十分だ。
実際には、寿屋での勤務、山崎蒸溜所の建設、独立後のニッカ創業という明確な歴史的経緯がある。
『マッサン』は夫婦の人生を知る入口として楽しみながら、実際の企業史や資料と照らし合わせることで、さらに深く理解できる作品だ。
2026年も受け継がれる竹鶴政孝の功績竹鶴政孝が亡くなってから47年が経過した2026年現在も、その影響はニッカウヰスキーの製造文化に残っている。
象徴的なのが余市蒸溜所である。
2022年、余市蒸溜所の建造物10件が国の重要文化財に指定された。
これは、単なる企業施設としてではなく、日本のウイスキー産業の発展を示す歴史的建造物として評価されたことを意味する。
さらに2024年にはニッカウヰスキーが創業90周年を迎えた。
1934年に政孝が始めた事業が、90年を超えて続いているのである。
現在のニッカでは、余市と宮城峡という異なる特徴を持つ蒸溜所を中心に、製造技術の継承と新たなウイスキーづくりが続けられている。
政孝が重視したのは、自然環境を尊重し、原酒の品質を大切にする姿勢だった。
ニッカの公式創業者紹介には、政孝の言葉として次の一節が掲載されている。
「よいウイスキーづくりにトリックはない」
この言葉は、製造技術だけでなく、原料、設備、熟成、職人の経験を積み重ねることの大切さを表している。
竹鶴政孝の功績は、過去の成功にとどまらない。
2026年においても、日本のウイスキー産業がどのような価値観を大切にしてきたのかを考えるための重要な手掛かりとなっている。
【よくある質問】竹鶴政孝に関するFAQ
Q1:竹鶴政孝は何歳まで生きましたか?
A1:1894年6月20日に生まれ、1979年8月29日に85歳で逝去しました。出身地は広島県竹原町(現在の竹原市)です。
Q2:竹鶴政孝とリタはどこで出会いましたか?
A2:1919年、スコットランドのグラスゴーで出会いました。リタの家族と交流するようになったことがきっかけで、1920年1月8日に結婚しました。
Q3:竹鶴ノートには何が書かれていますか?
A3:ウイスキー製造の実習内容をまとめた2冊のノートです。ポットスチルの構造や蒸溜技術、製造設備、従業員の待遇、労働環境、酒税などが詳細に記録されています。
Q4:竹鶴政孝はサントリーの創業者ですか?
A4:いいえ。サントリーにつながる寿屋の創業者は鳥井信治郎です。竹鶴政孝は寿屋に技術者として入社し、山崎蒸溜所の建設と製造を担当しました。その後、独立してニッカウヰスキーの前身を創業しました。
Q5:ニッカウヰスキーが創業されたのはいつですか?
A5:1934年7月2日です。前身となる大日本果汁株式会社が設立され、北海道余市に工場が完成しました。第一号ウイスキーの発売は1940年です。
Q6:竹鶴政孝の後継者は誰ですか?
A6:甥で養子でもある竹鶴威です。1949年にニッカへ入社し、第2代マスターブレンダーや第5代社長などを務めました。
Q7:竹鶴政孝の死因は何ですか?
A7:1979年8月29日に85歳で亡くなっています。ただし、主要な公式略歴には具体的な死因の記載がありません。
Q8:NHKの『マッサン』は竹鶴政孝の実話ですか?
A8:竹鶴政孝とリタ夫妻をモデルにしたドラマですが、登場人物の名前や企業名は変更され、物語上の脚色もあります。実際の夫婦の歩みを知るには、ニッカウヰスキーの公式資料や関連する歴史資料も参考になります。
竹鶴政孝の生涯を振り返ると、そこには一貫した信念があった。
それは、日本で本場スコットランドに負けない本格的なウイスキーをつくるという夢である。
1894年に広島の酒造家に生まれ、摂津酒造で経験を積み、1918年にスコットランドへ留学。竹鶴ノートに製造技術を記録し、リタと結婚して日本へ帰国した。
1923年には鳥井信治郎に招かれて寿屋に入社し、山崎蒸溜所の建設に携わる。そして1934年、北海道余市で大日本果汁株式会社を設立した。
すぐに利益を生まないウイスキー事業を続けるためにリンゴジュースを販売し、熟成を待ち続けた経営判断には、品質を優先する政孝の姿勢が表れている。
その夢は、竹鶴威をはじめとする後継者や職人たちに受け継がれ、余市と宮城峡という2つの蒸溜所を通じて現在まで続いている。
竹鶴政孝が「日本のウイスキーの父」と呼ばれる本当の理由は、一本のウイスキーを生み出したことだけではない。日本で本格的なウイスキーをつくり続けるための技術、環境、企業、そして品質を大切にする文化を築いたことにある。
2026年の今、余市蒸溜所の歴史的建造物やニッカの製造現場を知ることは、日本のウイスキーが歩んできた道を知ることでもある。
彼がスコットランドから持ち帰った2冊のノートに込められた情熱は、今も日本のウイスキー文化の中に息づいている。
主な参照資料
- ニッカウヰスキー公式「創業者・竹鶴政孝」「ニッカウヰスキーの歴史」
- 外務省外交史料館「竹鶴政孝」関連資料
- 国立国会図書館典拠データ
- サントリー公式「ウイスキー100周年の歴史」
- 学校法人帝塚山学院「マッサンの妻と学院」